北海道の思い出2
北海道ついでにもう少し。考えるとご当地に7回は行ったはずで、そのたびに
思い出がありますが、昭和28年に初めて行った旅行が、なんと言ってっも一番です。
その後は北海道が、どんどん新しくなっていきました。
上の写真は白老アイヌコタンの家の前に飾られた熊の骨。うまく写っていませんが
ヒグマを殺し、その魂を神々の世界に返すという「イオマンテ」熊祭りで生贄の熊の
頭蓋骨が無数に杭に刺さっていて、不思議な世界を見ました。
札幌の南にあった「ツキサップ牧場」。広大な牧場で夕方小屋に戻る羊の大群に
出会いました。次に行った頃には牧場がなくなり、ツキサップが月寒(つきさむ)と
呼ばれ、すっかり都市化していました。
昭和新山の周りは何もなく、隆起した山の下で写真を撮っているのは若き日のbーg。
この旅行の頃は、北海道へ渡るのに青函連絡船しかなく、函館に着くと魚の荷を
担いだ多くのおばさん姿に、はるばるやって来た思いをしました。写真は帰路に乗った
船が洞爺丸。丁度その1年後の9月26日に台風のため、津軽海峡で沈没したのでした。
この遭難事故の時、高校の仲間で東大に進んだSが犠牲になったのは悲しい思い出です。
アイヌコタンにて
最近は人の名前や固有名詞を聞いてもすぐ忘れ、そして思い出せないのですよ。
なのに昔のことを突然ポッと思い出したりします。戦争終わって8年目の昭和28年
に大学仲間4人で北海道を巡った話を、先日のブログで書きました。
その旅行の写真の数々を懐かしく見ていて、白老のアイヌコタンを訪れた時の
酋長さんの名前が「そうだ、宮本イカシムトク」とスッと口に出たのです。あの頃
「アイヌコタン」と呼んだアイヌ部落が以前のまま残されて、皆さんはそこで生活
されていました。
生け捕った熊の頭蓋骨を家の前に壁のように並べ、家の中で宮本さんがアイヌの
生活ぶりを話してくれました。「記念写真を」と頼むとこころよく応じてくれて
威厳のある姿を写真に収め、我々4人と並んだ記念写真も酋長さんと奥さんが
代わる代わる交代でシャッターを切ってくれました。貴重な写真です。
SNSによると宮本イカシムトクさんは、昭和33年に81歳で生涯を閉じたそうで
我々が訪ねた5年後に亡くなったことになります。堂々として優しさも持った人
だったと記憶しています。
昔のアイヌの風習で鼻の下に刺青を入れた奥さんのサキさんも、若い我々に部屋で
裁縫するところを見せてくれたり、アイヌの生活ぶりを話してくれました。
コタンの一隅に木で組んだ熊の檻があり、その横で酋長さんと別れました。
戦後流行ったNHKラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の中で山男が「アーアー」と口ずさむ
メロディーを昭和24年(1949年)に菊田一夫作詞、古関裕而作曲、伊藤久男が歌った
「イヨマンテ」は、熊祭りでアイヌ語の送り儀式のこと。コタンを訪れて熊と深い
関わりを知りました。
2003年50年ぶりに再び白老を訪れた時の変貌には驚きました。まるで違った
観光地になっていて、アイヌ記念館やお土産やが連なり、車がずらりと並んで駐車
していました。下はその時の写真です。
小さな命
我が家の路地に咲いたミニトマトの花と、家の前のIさんが毎日水遣りして育てる
オリヅルランとデュランタの花と実が、とても小さいながら見事に咲きました。
小ささはミニトマトも含め、みな小指の先っぽ程の大きさですよ。
自然の姿はこんな小さくても、スマホでアップし撮ってみると、肉眼では殆ど
気がつかないような、驚くほどに整った姿を見せてくれます。そして小さな花が
小さな実になるのも自然の大いなる動きです。体が不自由になると、身の回りで
目の前の手に届くものが気になり、そして勇気づけられます。
今日の午前中はリビングが暗くなる程になり、強い雨が降りました。午後には
陽も射し始めましたが体調は湿ったまま、何故だかだるくて眠くて歩くのも面倒な
1日でした。これってきっとコロナが気持ちに伝染したのかも。
今日のコロナの感染者が60人、緊急事態宣言が解除された5月25日以降の最多を
2日続けています。コロナと共に生活するのは憂鬱で草臥れますね。これがずーっと
続くのかなあ、巣篭もり生活も。
差し入れ
午後5時頃に玄関のベルが鳴り、戸を開けるとMさんが「今日掘ってきました」と
笹竹をたくさん持って来て下さいました。4月にも掘りたてを下さいましたが、太さが
まるで違います。Mさんは「正月に立てる笹竹で」とのことですが、ともかく細長い。
写真に収めてから茹でて、冷蔵庫で保存し色々な料理にするのだとmーk。お鍋一杯
あるから食べ出があります。
その前、せがれからのLineで「海鮮丼2人分買ったので、これから持って行くよ」。
mーkは今晩の食事を考えなくて助かったと言いました。bーgは自慢じゃないが料理は
全く作れないのですが、久しぶりにご飯も刺身も美味しく完食しました。
この二、三日、歯の調子が悪くてあまり食べられなかったので、尾籠な話ですが
ウンチが少ない状態が続きました。食べる量が少ないとてき面に出るものも心配する
ほど少ないのですよ。竹の子は繊維があるし、海鮮丼のお陰で通常に戻りそうですが、
一方コロナ太りになるのも心配だ。
今日のコロナ感染者20代から50代と70代80代の男女で57人。21人は濃厚接触者、
36人は感染経路不明。57人中20代と30代の若い人が41人と7割を超えています。
また「夜の街」関係が17人で依然として多い。東京都は第2波に備えた対策を検討する
ワーキングチームを立ち上げたそうです。
タクシーで通院
K病院の整形外科診察日。コロナ感染を恐れ、足腰弱って道で転ぶのも恐れて、
贅沢だが往復タクシー使って出かけました。もしも感染し転んで骨折などしたら
と思えば、片道4,500円は惜しくありません。
とはいえ整形外科のH先生に言われました。「自粛解除になったので、歩かないと
だんだん脚が弱くなりますよ」そうなのですが、1日動かないと1日動きづらくなる
のは目に見えています。「痛みと痺れにずーっと付き合ってゆくほかありません」と
いうことで、痛み止め薬3月分貰って帰宅。医療費ちょっと高くて3,810円。
帰路のタクシー内から皇居前の内堀通りで見た丸ビルと皇居の松。31℃もある
暑い1日でした。昨日との気温差に疲れます。
円覚寺から2月29日の閏日に遷化された、足立大進老師の記念誌と手拭いを頂戴
しました。大進老師とはお話をしたことがありませんでしたが、暖かい肉太文字の
色紙を頂いておりました。「もう死んでいいですか ありがとう」のご本は、老師の
日曜説教と数編の文章を編集したもの。
後記に「何があれば安心して生きていけますか」と問うたら、「やっぱりお金か
しら」と答えたお婆さんがある。日常、私たちは己の名聞利養を求め、若さと健康と
寿(いのち)に心を奪われているが、「死」の前には全く無力で安心の拠り所とはなら
ない。「老病死」は避けることができない。動かないものである。「死」を見つめる
時にこそ「安心」が得られる。と書かれています。
ご本の帯には「いざ西に向いてお先に出かけます ゆっくりござれ あとの連中」
そして題名が「もう死んでもいいですか ありがとう」。老師の清々しい生き様を
とても真似できないbーgです。
67年前の北海道
一昨日のランプの写真は、屈斜路湖東部の湖畔にある鄙びた仁伏温泉で撮ったもの。
もう67年も前に大学仲間4人で訪れました。誰も泊まっていないガランとした湯船に
蛇がとぐろを巻いていてギョッとし、遥々北に来たもんだと思ったものでした。
戦後すぐの昭和28年、大学4年の時に北海道旅行を思いつき、歌舞伎座前にあった
北海道連絡事務所を訪ねて旅行の相談をしたら、親切な所長さんが計画を練ってくれて
道内各地の営林署などの宿泊施設に紹介状を書いて頂き、格安な旅行のひと月間でした。
bーgの従姉の身内が函館で工務店を経営していて、連絡船で北海道に到着した第一日は
湯の川温泉にご招待。また大学の先生の弟さんがNHKの札幌支局に勤務していて、道庁側
のサッポロビールでご馳走になったり、一緒に行ったSの叔父さんが札幌三越の支店長で
三越食堂で豪華な夕食を振舞われました。
大きなリュック姿のbーg達は、1960年代後半から10年続いた「カニ族」と呼ばれた
バックパッカーの走りでしたね。東京に戻ってから北海道で描いた4人のスケッチを
一冊のスケッチブックに描き写し、連絡事務所の所長さんにお礼として差し上げました。
高度成長期前の札幌では荷馬車がいっぱい街中を走り、赤レンガ造りの道庁も庁舎と
して使われていました。Googleの整備された建物の写真とまるで風景が違います。
昭和17年に始まった昭和新山の火山隆起は、当時東京でも有名でした。bーgが行った
2年前の昭和26年には「天然記念物」に、32年に「特別天然記念物」に指定されましたが
行った頃は観光化されておらず、畑からニョッキリ立ち上がった溶岩ドームのままでした。
新規感染55人
緊急事態宣言解除後としては最多の新規感染が55人です。既に7人の感染者が出た
同じ職場の同僚で20代の男女が9人、新宿のホストクラブ関係で20人で恐ろしい。
クラスターが夜の街だけでなく、無防備の職場に広がる心配。街を出ると、ほとんど
以前の人出になっていて、これでは二次感染は大丈夫だろうか。
昨日は抜歯した所からの出血が、歯科医から教わったように止血したが止まらず、
そのまま就寝。今朝にはだいぶ治まって一安心。朝は流動物、昼は麦とろご飯で
腹に流し込みました。ちょっとの具合悪さでも、気分が優れないものですね。
で、今日も一日中家で巣篭もり。
上の写真は向かいのIさんの花壇、デュランタという小さな花で、ビワのような
立派な可愛い実が付いていました。
上は夾竹桃の花。下も壁をバックの夾竹桃。
命ある限り
N老師の新著、五木寛之さんとの3回にわたる対談集「命ある限り歩き続ける」を
今朝、送って頂きました。最近は巣篭もり続きで、いささか鬱のbーgに一喝です。
散歩も面倒になり出掛ける用事もないので、ほとんど外に出なかったのですが、
今日はmーkとbーgのスマホが調子が悪く、やむなく白山上のauに予約して昼から
出かけました。用を作って歩くこと1,900歩。
一昨日歯が抜け、2時半に感染を恐れてタクシーで予約した銀座のI歯科へ行く。
診断は一番奥歯の冠ごと歯が折れ、根っこも縦に3っつに割れていたのでした。
「一番奥歯は噛む機能が10%くらいだから、抜きましょう」ということで即抜歯。
止血処置をして終わり、またタクシーで帰宅したのですが出血が止まらず、I歯科
に電話したら、ティシュを固く丸めて詰め、20分ほど強く圧迫するといいと言われ
何度も何度もトライするが止まりません。痛みもあり、今夜はこれでギブアップ。
タクシー使ったのでプラス500歩、トータル2,400歩の歩きでしたが、外の空気を
久し振りに吸ってきました。
アサヒカメラ休刊
昨日の新聞広告で94年間続いた「アサヒカメラ」が、今月で休刊とのこと。bーgが
まだ20歳の頃、旭光学製のアサヒペンタックスという一眼レフカメラを買ってから、
写真に凝りましたね。当時はもちろん白黒フィルムで、自分で現像しては押し入れに
潜って暗室として、紙焼きをしました。その頃から「アサヒカメラ」を10数年くらい
愛読したものです。
上の写真はアサヒペンタックスで撮ったもの。大学4年の夏に北海道を一周した時、
当時は高価だったカラーフィルムで、電気のない阿寒湖の宿のランプの光だけで撮り、
アサヒカメラの月例コンクールに出して、金賞を貰いました。当時はまだ本が薄くて、
最高賞なのに他と一緒の小さな色刷りでした。記念すべきこの本はいつの間にか捨てて
しまって手元に無いのが残念。
最終回の先月のアサヒカメラは、デジカメ万能なのに「いまこそ、フィルム!」と
頑張ったけれど、ついに次の7月号で休刊です。
3月の販売台数が前年比50,1%、4月が31.5%、5月で35.5%までダウンし、6月号
に掲載された広告ページは自社広告除くと、たったの11ページ。しかもカラー広告は
わずか5ページだったとのこと。コロナで広告収入が低下しては、休刊やむなしです。
あの頃には「アサヒカメラ」のほかに「毎日カメラ」「写真サロン」など特徴ある
写真誌が多く、一昨年亡くなった写真好きの義弟のYは、アサヒカメラを施設に入っても
最後まで毎号買い続けていました。bーgは買わなくなったけれど、あのアサヒカメラの
休刊は寂しいもので、時代の移り変わりを強く感じます。
オンライン坐禅
臨済宗青年僧の会主催のオンライン坐禅会が、8時鎌倉からN老師の指導でZoom
というソフトで流れ、bーgとmーkは自宅でテレビのYouTube画面を前にしながら
椅子坐禅で参加しました。
鈴木大拙さんとフランスの方との禅問答「アメリカとヨーロッパが繋がる法は?」に
普通なら飛行機が一番便利と答えるが、フランス人は自分の力で行く鳥と答えました。
大拙さんの弟子の秋月龍珉さんは「文明の利器の飛行機を否定してはいけない」と
言われましたが、大拙さんはそれを否定されて「心」だと答えられたそうです。
今日のオンライン坐禅会で思いました。普通なら坐禅堂に電車で行きますが、自分の
足で歩いて行く方がさらに修行になります。しかし今日のようなオンライン坐禅では、
坐禅堂にもいません。しかし無心になれば、そこがたちまち心で繋がり、坐禅堂になる
いうことでしょうか。
電話が発明されたころ、電話線で声が聞ける不思議に、当時の人はさぞ驚いたことで
しょう。電話線に荷物を結べば先方に届くと思った人もいたとか。Zoomで応募した
数十人の方の家で坐る姿が画面に現れ、いわば架空の坐禅堂に集まって坐っています。
コロナ以来、人との接し方が変わり定着しつつありますね。学校ではオンライン授業
が普通になりつつあり、新しい世の中のシステムにbーg時代の老人は追い付きません。
父の日の朝、宅急便で娘のEから冷凍イチゴのプレゼントが届きました。ありがとう。
昨日から外出規制がなくなり、待ってましたと解放された人々が、どっと施設や郊外
に出かけたようです。渋滞ナビを見ると何ヶ月ぶりに赤い渋滞が見られます。二次感染
は大丈夫だろうか、まだ心配で出かける気分になりません。
今日は夏至で昼間が一番長い日なのに巣篭もりの一日、夕食中に奥歯がポロリ抜けて
しまいました。来週は恐る恐る歯医者に行かねば。
夕方には日蝕が見られる筈でしたが、東京は曇って見られず。次回は三年後ではね。